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2005年11月29日

大家悪魔に魂売る 4

1980年後期、マウンテンバイクブームは世界中に広まる、勢いだった。そんな中、台湾の自転車業界のリーダー巨人自転車工業が世界に販売会社を設立していた、日本では輪界新聞等で責任者の募集をしていた、当時、日本での自転車生産の未来を見失っていた私は、大変興味が有り応募して見た。
しかし、その後、返事も無く2年が過ぎようとしていた時、突然、日本での責任者が内定して、販売会社をスタートすると言われた、なんとその責任者は大家TOM氏であった。
1988年の年末、憧れのTOM氏と面談、なぜ巨人にとの問いに「悪魔に魂を売った」との返答であった。

2005年11月28日

大家悪魔に魂売る 3

1986年のプラザ合意は世界の自転車生産の地図を塗り替える、キッカケになった。
日本の自転車産業・特に完成車の輸出は大幅に減少して、台湾が自転車輸出大国に成長、
マウンテンバイクブームも到来して、自転車フレームの製法もTIGに変貌した。
既存のメーカーの商品では物足りず、しかし、日本の商社のブランドではなく、
アメリカでの企画、プロモーションと販売、台湾での生産を組み合わせた新興勢力のブランドが北米で成長した。
その時、日本の完成車メーカーの目標「世界に通用する自転車を作る=ツールで勝つ!」は消えた、唯一シマノだけがその目標に向かっていた。

2005年11月26日

大家悪魔に魂売る 2

1960年70年代に戦後の自転車先駆者の多くがヨーロッパを訪れ、それぞれの記録がニューサイクリングに掲載された、山王スポーツの高橋 長敏さん、杉野鉄工の杉野 安さん、そしてその後の大家TOM氏の記事は詳細を解説してあり、その中から私はフランスの車種体系を知っていった、ただその当時、その車種体系は普遍だと思っていた。
 80年代、私は片倉自転車に勤務していた、その当時、神奈川大学で自転車のセミーナーが度々開催された、神大では自転車の走行ロボットを研究しており、その研究室が主催していた。そのセミナーにミヤタ自転車に居られた大家TOM氏を招いて、セミナーが開催されると話を聞いて、憧れのTOM氏の話を聞こうと参加させていただいた。
 その頃、TOM氏はフランス車の解説記事ではなく、ヨーロッパのレースとレーサーの記事を書かれ、エディメルクス・ミヤタの自転車を企画して、その後コガでのレース活動の道をつけ、国内レースでも最強のミヤタレーシング監督も勤めた、そんな憧れの大家の話を聞けるのだ。
講演の内容は、、北米でのバイコロジー運動で一挙にスポーツ車の需要が増え、日本製の部品を付けた、日本の名前の10スピード車(27X11/8のドロップ車)が多く輸出されていた、たとえば、フジ、ニシキ、カブキ、等のブランドでシマノ・サンツアーの仕様で有った、全盛期の日本自転車産業は世界制覇を目指し、世界に通用する自転車を作る=ツールで勝つ! と認識して行動していた日本の自転車会社はシマノ、ミヤタでシマノはジュラエースをフランドリアチーム使い挑戦して、ミヤタはオランダのコガと組んでコガ・ミヤタでレース参戦しているとの内容であった。
 講演が終了して、質疑応答の時間が持たれた、一人の熱狂的フランス車党でその後、筑波でフランス車の店を営んだO氏の「性能の劣る部品、例えば当時のフランス部品は無くなっても良いのですか」の問いに「機能を追求して行くのが自転車で、デザインはその機能と追及して出来た型で、性能が劣る物は淘汰される」と答えた。
過去にフランス車を細部渡り追求した、大家も、過去より未来を目指していたので有ろう。
 

2005年11月25日

大家悪魔に魂売る 1

1950年代から1960年代は、ヨーロッパまでの距離は今より遠かったし、ヨーロッパの自転車関係の訪問・滞在記事等で情報を得ていたし、大変興味の有るものだった。 戦前のサイクリングスタイルは英国スタイルを研究していたが、その後多くの自転車人は、鳥山新一先生の影響等もあり当時、自転車の最も進歩してた国フランスの自転車の紹介、体系化をしていた。ランドヌール・シクロスポルチフ等は当時の車種名が今も残っている物で、このタイプに準じる自転車は現在フランスでも量産されていない、自転車の車種体系は時代と共に変わる。

2005年11月23日

ラグ 丹下チャンピヨン

国産スポーツ車用ラグでプレス加工品の70年代に最も成功した、イタリアンカット、肉薄仕上げの要望に答え、最初から1mmのハイテンション鋼で肉薄仕上げに彫刻的センスが無くても、肉薄仕上げになる。
日本の几帳面なプレス加工と、TIG溶接で作られており、内径のリーマー加工で肉厚を大きく落とす部分はない、その代り肉厚の変化で大きなRは付けられないし、ヘッドパイプ上下の中心部、角度の一番きつい部分はラグとパイプの間に、大きな空間がありロー抜けしやすかった。
この辺は技術で工程を簡素化できても、根本的な要件が十分に理解さていない実例の一部と言える。
日本製の部品がヨーロッパを走り始めた、70年代同様の問題はレースにおいて多く発生した、日本の自転車関係の技術者は、この様な問題の解決、つまりツールで使える自転車を作る事が目標で有った。
次回、大家悪魔に魂売るに続く

2005年11月22日

ラグ ナベックス

今日はフランス代表 ナベックス。 プロフェショナルとイタリアンカットが有ったが、コンチネンタルのプロフェショナルが有名、片倉シルクではたしか1977年度のシルクキャンピングSC-15に一年使った、この前は低温溶接のラグレス、この後は袋谷のイタリアンカットになってしまう、変えた理由は簡単で値段が高いため、この時のSC-15は正にレアな一品。この時在庫に有ったナベプロ約100セットは当方に引き継がれましたので、今後フレームにして販売して行きます、その節はよろしくお願いします。
 イタリアンカットの方は初期のデローザに使われていたはず、今でも小型ラグ見本の様な存在になっている。
ナベックスのハンガーラグはマリエブル製だがヘッド・シートの3点はバルジ加工と思われる、イタリアン・プロ共にヘッドワンの圧入部にはリング状の加工がなされている、元管の時に最初に圧力を掛けて成型されたと思われる、この部分の成型圧はかなり大きいと推測され、このため角もしっかり出ている、その後、内圧を掛けて押出し後にカットされる、押し出せる量は長くないのので、シートカットになってしまう、プロのコンチネンタルは格パイプに対して4方向から打ち抜かれている、唐草模様をデッサンしたカットは永遠の様式で有ろう。
ハンガーラグは唐草模様にはカットされた物は、ナベックスでは生産してないと認識してますが、誰か事実をご存知の方いらっしゃいますか?

2005年11月21日

ラグ

ラグで60年代最も有名なラグはチネリに使われていた、アグラッティのコルサだろう、チネリではシート・ハンガーはマリエーブルを使用していた、ハンガーはそのRの大きさから一目で判断できたが、チネリタイプの集合ステー、ピン埋め込みに処理されたシートはヘッドラグと同様に仕上げられマリエーブルとは思えなかった。
アグラッティのコルサはプレスのイタリアンカットで肉厚2mm以上ある鋼鈑を中心から左右、別々にプレスしてから溶接して製作してある、ガスの鉄溶接なので、表面の研磨と内径のリーマー加工でかなり端部の肉厚が落ちて綺麗なRを持っている、これを仕上げ、肉薄にする、特にイタリアの彫刻の様に削られた自転車は美しい、東京オリンピックでチネリ、MASIを見てインスパヤーされフレームを作り出した、日本の匠も多い。

2005年11月20日

マスキング デカル

マスキング デカルとは、デカル(貼りマーク)と塗装の塗り分けのマスキングを一枚のシートで行う物で、
2色塗りの流行って来た5年ほど前かに、開発されて塗装技法です。
簡単に説明すると、カッテイングシートを抜いた文字の貼り付けには、その位置を決めるリタック紙を使用して位置を決める、このリタック紙をマスキングに利用する物です。
例えば、2色のラインのマークの両側を別々の色で塗る時に使う。
おそらく、日本のマーク屋さんでは作っていないだろう、この例でも日本の自転車産業の空洞化が判る。
当方、位置あわせの可能なカッテイングプロターを購入して、転写シールとマスキングシートのカットで只今マスキング デカル試作中です。

塗料の顔料

この所、何社か塗料店に行っている、自転車の国内生産は殆んど終わっているので、自転車用塗料を扱っていた、塗料屋も自転車用塗料の扱いは無くなっている。
 台湾・中国では豊富な自転車塗料需要から、多くの塗料メーカーが存在して、立派な色見本帳がある、そしてその色数は年々増えている。
 日本の自動車メーカーは発色より環境問題を考え、水溶性塗料に切り替えて来ているが、中国の自転車産業は日本のバイヤーからの要望で、綺麗な色を求められるので、環境より商売が優先されて、ヤバイ顔料を含んだ塗料も多い、大体ヤバイ顔料の方が発色・退行性・等の特性は良い。
昨日、行った塗料屋には埃だらけのガラス瓶に保管さた、顔料が沢山ある、コバルト、緑青、丹、雲母、などの天然無機物系顔料だ、おそらく30年以上は保管されているだろう、いまでは公害問題で生産できない毒性の強い物もありそうだ。

2005年11月18日

接着剤の伸び

高弾性高強度T800とか高弾性M45は伸びが非常に少ない、それでこのパイプを使い、同様の高弾性のカーボーンラグを作り、接着構造でフレームを作るとして、(OCLV、もADVANCEも接着部が有る)まず引張強度はカーボン素材T300(今や普及品)で360kgf/mm接着剤は東レのケミットだ3.2kgf/mmだ、カーボン成型品は強度低下するとしても約100分の1、もしT1000Gの高強度タイプだと200分の1、でもこれは大きな問題ではない、接着部を200倍取れば良いのだから。(でも問題の時も有る)
それより、問題は接着部の伸びだと思う、正確な数字は置いといて自転車の接着部は0.07ミリ程度動く、アルミ・カーボンバックのフレームでは、接着部のクリーヤー塗装が割れる、これは何と塗装の伸びより、接着剤の伸びが大きいからだ、一部のメーカーはこの対策で接着部にシールを貼っている。
素材が伸びなくても、接着部が伸びては、全体としてどうなる。

2005年11月17日

カーボンナノなの

BMCとかSEVENとかでカーボンナノチューブとか言っている、カーボンチューブとカーボンナノチューブ同じ様に聞こえるから、同じ様な物と思えるが、私の知る範囲では別の物。
解説してあるページ無いのかな?、カーボンナノチューブは凄いからカーボンナノチューブのフレームですと言うと凄いはず、でもどの程度違うのか、誰か教えて。
カーボンナノチューブで連続したフィラメントて最長で何μ?今のカーボンファイバーのフィラメントと同じになれば、凄い、軌道エレベーターが出来る。
でも今は、鉄筋コンクリートに例えると、カーボンフィラメントが鉄筋で、エポキシ樹脂がセメントとすると、ナノチューブは砂の新型で、セメントの間に入ってセメントを強くしている状態ですよね?
だれか解説して、、

2005年11月15日

メッキ用の仕上げ

ルネ・エルスは塗装仕上げとメッキ仕上げでは、フレーム加工・仕上げを変えていた、メッキ仕上げ用はラグが鉄溶接で製作されるが塗装用はロー盛である。私の推測では初期の物は全てメッキ仕上用と同じでガスによる鉄溶接で、ラグを製作したであろう。その当時、角度や形状が合うものは生産さていないので自分で作るしかなかったのだろう。さすがにエルスの技でもガス鉄溶接で肉薄のラグを、酸化させず溶接する事は困難であろうから、肉厚は厚く、表面は酸化鉄で覆われているはず、それを削ってあのラインを出すのは、さすがに大変であっただろう。プレスで使える物が出てくれば当然使用する、しかし、ラインが出ないのでロー盛する、さてこれをメッキしたらどうなっただろう?
私の経験ではローと鉄の境目が出てしまうと予想する、この経験からメッキようは鉄溶接の物を使用していたのであろう。
現代ではガスによる鉄溶接は鉄筋の圧接以外使われていない、MIGかTIGになってしまった。

メッキフレーム

最近は鉄フレームが減ったせいかメッキのフレームは見なくなった、過去にフランスで行われたコンクールデュラルミンにおいて鉄フレームで限界に近い軽量化がなされた場合、オールメッキ2つの点で有利だった、1にフレームの破損が確認しやすい、2にパイプの外側のメッキ層によりフレーム剛性が上がるためだ、0.3mmなどの軽量パイプで組まれたフレームは当然壊れ易い、パイプが走行中に塑性変形に至る応力を受けたら、メッキ層の剥離が起きて外観で判断できる。剛性が上がるのはアルミフレームにグリッドブラストしてから硬質アルマイトを掛けると表面が硬くなる事により剛性が上がる、メッキでも同様である。

2005年11月13日

最近のトソーとマーク

本日、サイクルモードを見学した、DEROSA、は80年代のヒーロー、メルクスが使っていた、憧れの一品、片倉シルク時代に一台趣味で購入した物が今も有る。
以前の書いたが、DEROSAとてマーク、塗装方法が変化しているのは、見て取れる。
同じスチール・ラグのフレームでも、クリアーはウレタンの輝きで膜厚もかなり有る。
ロゴの字体は大きく変更は無く安心できるが、マークもウレタン塗装に対応した物で厚みも有り、塗りわけの上でも、しっかりしている。
アルミ・カーボンはデロデロのクリアーが合うが、ラグ付きは薄い塗装が私は好き、作るのは大変だけどオールメッキは塗装とは別の世界になる、あのエルスも塗装仕様とメッキ仕様では作りが違うと、元上司から教わったし、作るともっと良く分かる。

2005年11月12日

車体番号その2

車体番号の最初の文字は、ほぼメーカー名の略号、最初の頭文字です、次の番号、又は英文字は各社取り決めが有ると思うのですが、大体は製造年度です。
今まで勤務していた、輸入メーカーでも同じで、部品のお問い合わせを頂いた時に、車種名だけを言われても、年度別に部品が変わっているので車体番号を聞いて、年度を判別して答えています。
 片倉シルクはどうだったか、たしかモデル名の最後が年度記号で、車体番号の2文字目だった、つまりR2-Rは76年度車で車体番号はKR?????、3文字目からはその年の製造番号で連番だったはず。
最近の中国の自転車工場では400万台近く作っている所もあるので、1000万作る工場になったらそれだけで8桁になる、防犯登録の車体番号は8桁しか記入出来ない(場所によって違いはあるようです)ので、連番ならそれだけで終わるので、製造月とライン番号等を英文字で決めている所は3文字目も英文字が多い。

2005年11月11日

車体番号

今日は生地在庫のフレームを塗装してます、工場が八王子移転した時の物と三和が廃業した時に入手した物です。
片倉シルクで、実際フレームから生産した物は車体番号の先頭はKだったはず、一部オーダーは4桁の番号のみ打刻した、外注で王子自転車からフレームを購入したものはGから始まる。今日見たフレームは全てGだった、三和生産のシルクは90年代に作られた、これはSAで始まるはず、何台くらい作ったかな?この当時生産していたシルク出の職人も、今年の夏に他界してしまった、聞く相手が居ないので詳細は不明、で作っていたのは事実、その時のシルクロード用ロストラグとプレスティージのパイプは手元にある。

2005年11月09日

アルミフレームの特性

今日はホームページのリペアのページをアップするために、アルミフレームの修正に付いて色々思いを巡らせている。やはり鉄に比べるとフレームの折れは多い、材料の特性として疲労強度が低いので良く走るライダーは何本か壊して体感していると思うけど、そんなに走らないのに折れる事もある、これは殆んど落車等でフレームが変形(恒久ひずみが起こった)にもかかわらず、そのまま走行している場合が多い。鉄は恒久ひずみが起こっても疲労強度は大きくは低下しないので、折れは少ない。最初からフレームのセンターが完璧なら、測定器で測れば変形しているか判るが、今のアルミフレームは殆どがかなりヒドイ、理由は簡単で溶接または最終の熱処理後にセンター出しが出来ないためです、センターを出す=恒久ひずみを起こす だからです。交差の範囲だから出荷するのだろうが、乗る前に各部を測定して有れば、落車後変形があるか分かるのに。

2005年11月08日

自転車のマークと線引き

自転車のマークで一番古いのがそれは当然、手書きです、複雑な色使いは不可能です。
車体色も黒が殆どですから、装飾には線引きは欠かせません。
先の細くなった真鍮パイプに塗料を入れて、指をパイプに沿わせて引きます、チェーンケースも同じ様に引いていました、当然固体差はかなり有りました。
その後はスクリーン印刷で転写シールが広く使われます、昭和初期のミシンも黒に金のマーク唐草模様、線引きが見られます、これは当時のデザイン的流行です。
その後、ビニールシートと粘着性接着剤の開発でステッカータイプが主力になりました。
MTBブームで生産が台湾に移るとスクリーン印刷の転写シールが高級車の標準になりました、車体色もマークと共にデザインされ多色な物に変化していきましたので、転写シールに塗装のマスキングフィルムを付け複雑な塗り分けを可能する方法が流行しています。
 一方MTBに乗り遅れたイタリア勢はアルミロードを進化させていきます、アルミロードは今までの工房(チクリ)とは別の流れからスタートしましたので、塗装方法は自動車と同じ手法を取り入れました。
元来、量産でも一台づつサイズの異なるチクリでも、時代の要望で複雑な塗装を要求されます、そこでPCカットでのマスキング塗装が重要になり、イタリアの有名塗装屋はヘェラリーに乗れるほどです。
シルクサイクルでは各種の手法でマークを製作出来ます、コストは掛かりますがスクリーン印刷での転写マークも製作できます。
イタリア式のPCカット・マスクでの塗装も可能です、サイクルショーの展示車の線引きもこの方法です。

2005年11月06日

片倉シルク最後の日

元祖片倉シルク号(片倉工業さんの子会社)が正式に廃業したのは1997年11月(正式見解ではないですが最後まで働いたOBが解雇された月です)、この時にセキネ・山口・シルクの3メーカーが廃業した月でもあります。セキネ ブーンバイク・カナデアンロード、 山口 ベニックスも消えたのでした、シルクの生産はこの年まで行われていました、片倉工業の事業所 福生 森田製糸工場が終戦後に平和産業への以降で自転車製造を開始してから60年でした。
創業の地 福生市熊川の青梅街道沿いの工場は元製糸工場なので工場の下を川(用水)が流れ、この水は多摩の美酒「多摩自慢」の清酒工場から流れて来る清流で、庭の池には藤棚が、北側の便所からは奥多摩の山並みがよく見えた、のどかな工場でした。
この福生工場は1989年に八王子に移転、その3年後には三和自転車(セキネ・山口)と合併したのでした。
福生で生産された80年代までが本来のシルクらしいモデルと言えると思います。

2005年11月05日

応援ありがとうございます

応援ありがとうございます
本日サイクルショーは最終日を向かえ、同時に競輪の認定メーカーの会合もありました、
当方は競輪の認定は受けていませんが、片倉シルクで在職経験のあるフレームメーカーの2名が
競輪向けフレームを製作しておりますので、久しぶりに会うことができました。
同時に片倉シルクOBの小売店主2名と打ち上げをして戻った所です。
帰宅すると、お問い合わせのメール・ブログにコメントもいただいて、感謝・感激
改めて、巨人な自転車メーカーを退社して、シルク立ち上げ良かったと感じました、
日本でのスポーツ車が隙間産業だった60年代にピークを向かえたシルク号、
70年代にアメリカの、10スピード自転車ブームで隙間産業がマスになった時、
大規模な市場競争の中で、敗者になり衰退したメーカー、その後の為替の変動は日本での完成車の生産全てを消そうとしている、
敗者は消え去れば良いのか?
物に対する愛着や思い出は消せない。

2005年11月01日

サイクルショー搬入前夜の悪夢

明日2日サイクルショー搬入です、トソーも何とか終わり、組付けです。
今回は3台の展示です。完成車で販売するモデルはシマノR700コンパクトドライブのロード、これは難なく完成。
次に今回の見世物最先端の素材・技術でエレガントな自転車を目標に作っているSS14.5の組み立てです。
これはデダチャイの最強クロモリSAT14、5を使いステンレスのオリジナル部品を各種溶接を駆使して製作しました。エンドはステンレス板より切り出しました硬いのでコンター(帯ノコ盤)の歯を4回交換して切り出した一品、次回作る時は外注でレーザーカットにします。
このエンドのネジ山をタップでさらっていた時、やはりステンは硬いのでヤバイと思った時に、M5タップは折れて、エンドにタップは残ったまま、悪夢です。
タップ抜きで持っているのは新潟精工の3っ爪のやつ、これで挑戦するも硬いステンに食い込んだタップはビクともしない、、、これでサイクルショーも断念するか、とも考えましたが折れタップ取りの基本=ポンチで割る攻撃に変更、ネジ山だめでもショウガナイ、直れば儲けと気を取り直しポンチとハンマーで残ったタップを叩き割る、ポンチは3回磨いでネジ穴以外の部分を全部割ってもまだ取れず、さすがステンは硬く食い込む、ここまで来たら次はリューターで研磨、地味に削りました、でもネジは6Mに変更、ちょっとダサい。
大事な時に悪夢は起きる。