シルクラグと1964東京オリンピック

シルクラグ

 1964年東京オリンピック使用車を作り上げた片倉自転車の独自工法。
 最初にラグレス低温溶接する。このままでも十分な強度だが、応力分散のために補強板を付ける工法。
 接手としてのラグ工法とは異なり、極限まで薄いラグ(補強板)が可能で、ロウ抜けが無い。
 同じ様な工法としてバイラミネートが有るが、これはラグレスに補強板を同時にロウ付けするものでパイプ内側まで低温溶接されない。

オリンピック連続出場 
1956年メルボルン 1960年ローマ 
1964年東京

 1964年東京オリンピックに向けて輸入されたイタリアのチネリは日本人選手のサイズに合わなかった。そのためフジとカタクラに製作依頼があり、最終的にカタクラ・シルク号が日本代表チームの使用自転車として採用された。


東京オリンピックでロードレースを走った大宮政志選手のシルク号。部品は当時の最高グレード。

チームタイムトライアル・ロードのスタート。4選手中2台がシルク号


東京オリンピック1000mトライアル
佐藤勝彦選手のスタート。
右は風を気にする佐藤選手

タンデム車

東京オリンピック出場のタンデム車は100%イタリアなど外国製と思われがちですが、日本でも作られていました。


タンデムの製作
先のローマオリンピックで大活躍したイタリアCHINLLIは世界中の国から依頼を受けた、日本も多くのCHINLLIを購入した、タンデムは日本選手の体格に合う物は供給されなかった、数社が製作したが最終的にシルク号が本番でも使われた。 これは低温溶接法による強度の実証となった。
部品はカンパでブロックチェーンのギヤが良く判る。

 


翌年1965年アムステルダムで行われた世界選手権においてスクラッチでベスト8に入った平間誠記選手の使用車もシルク号です。

平間、シルクで活躍。そして

1966年の西ドイツ・フランクフルト、翌1967年のオランダ・アムステルダムで開催された世界自転車選手権のプロ・スクラッチ(現在はスプリントという名称)種目において、平間誠記は連続してベスト8入りを果たした。この当時、同種目7回優勝の実績を誇っていたイタリアのアントニオ・マスペスに陰りが見え始めていたこともあり、1968年、ウルグアイ・モンテビデオ大会では平間にメダル獲得の期待がかかっていた。平間もまた、この年は世界選手権に照準を合わせて日々の練習を行っていた。
 しかしながら、8月16日、大会へ向けて平塚競輪場にて合宿練習を行っていた時に落車して頭蓋骨を骨折し、8月21日に脳挫傷のため亡くなるという不測の事態が発生したことから、日本選手団は、アマチュア選手だけを派遣。
すると、タンデム種目に出場した、当時は共に大学生だった班目隆雄・井上三次のコンビが日本人として同大会初の銅メダルを獲得した。
1975年阿部良二、76年の菅田順和の銅メダル獲得、さらに77年優勝からはじまる中野浩一選手の世界自転車選手権10連覇へとつながっていく。